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'17年から始まったクーリエ・ジャポンの人気企画「25歳からの哲学入門」から30のお悩みを厳選。
先行きの見えない将来にお金の心配、仕事や人間関係のストレス、そして恋愛の苦しみ。現代を生きる人たちは様々な悩みを抱えている。もうこれ以上、どうすればいいかわからないーー。そんな泣きたい日にこそ読んでもらいたい、「よく生きるための答え」。
<本書のおもな人生相談>
●「新しい自分」になるにはどうしたらいいのでしょうか。
●人にいい顔ばかりしてしまう自分にうんざりします。
●どんな状況も乗り越えられる、強いメンタルが欲しいです。
●人生のすべてが心配です。貯金もなくパートナーもいません。
●老後が気がかりです。何歳まで働かないといけないのでしょう。
●情熱を傾けるものがなく、人生の目標もありません。
●どうしたら嫌いな人とストレスなく付き合えますか。
●やりたくない仕事にどうやって向き合えばいいのでしょうか。
●とにかく月曜日や連休明けが憂鬱で仕方ありません。
●セックスレスで悩んでいます。もう二人は手遅れなのですか。
●誰かを「愛する」というのは、どういうことなのでしょうか。
今、あなたがどんなに不安でも大丈夫。生きることに悩むすべての人へ贈る、明日を変えるための「30の教え」。
第1部 自分のために生きる心得/第2部 人生の苦悩と向き合う/第3部 人間関係のストレスを乗り越える/第4部 恋愛、結婚の哲学
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audible33冊目。
もう10年以上前に読んだ『嫌われる勇気』がとても良かったのと、アドラー心理学をふまえた人生相談ということで、期待して読みました。
が、個人的にはいまいちでした。
相談内容に対し、そういう回答か〜!?と、ちょっと拍子抜けしちゃうこともありました。
相手がどんなふうに答えてくれるか勝手に期待して、期待する内容と違ったら不服…
なんて、単なるわがままだなあとは思いますが。
きっと、刺さる人には刺さる、そんな本なのかもしれません。
あるいは、わたし自身も違うタイミングで読んだら、また違う感想を持ったのかも。
嫌われる勇気があまりに刺さり過ぎたので同じ著者のこちらを購入してみました。内容的にはなるほどとなったものの、期待値が高過ぎたのかそこまでの面白みは感じませんでした。とはいえ、アドラー心理学に沿った人生相談なので、また時間をおいて読んでみます。
1045
成功=一般、幸福=オリジナルで成功は幸福であるための手段でしかない。
メンヘラがいかに自分が可哀想で被害者か主張してきたり、不幸自慢する理由が書いてあった。
岸見一郎さんが、メンヘラはどのような形でも認められたいという願望だから、"屈折した承認欲求"って言っててなるほどと思った。承認欲求自体は別に悪いものじゃないと思うけど、犯罪をする事で名が知れ渡ったりするのも屈折した承認欲求のひとつなのかなと思った。
私は私に屈折した承認欲求を向けてくる人間とは関わらないようにしてる。普通の承認欲求なら別にいいけど。
岸見 一郎
1956年生まれ。哲学者、心理学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。奈良女子大学文学部非常勤講師などを務める。専門のギリシア哲学研究と並行してアドラー心理学を研究。ベストセラー『嫌われる勇気』(古賀史健との共著、ダイヤモンド社)のほか、『アドラー 人生を生き抜く心理学』(NHKブックス)、『生きづらさからの脱却 アドラーに学ぶ』(筑摩選書)、『哲学人生問答 17歳の特別教室(講談社)、『人生は苦である、でも死んではいけない』(講談社現代新書)など多数の著書がある。
泣きたい日の人生相談 (講談社現代新書)
by 岸見一郎
何かをする時、これまでと同じようなやり方をすれば、結果もある程度予測できます。それが自分にとって好ましいことではないとしてもです。変わらずにいることは、これから起きる事態を予見できるということなのです。 反対に、新しい生き方を選ぶと、次の瞬間に何が起こるかわからなくなります。これまでの人生経験を元にして次に何が起こるかが予測できなくなるという状況は、思っている以上にストレスです。
さらに、馴染みの生き方をしたほうがメリットがあることもあります。人に流されずに強い意志を持とうと思い実際にそう生きると、何もかも自分で決めなければならなくなるというのが新しい生き方を選ばない一つの理由です。自分で決めると、その決断に伴う責任もすべて引き受けなければなりません。事態が望んでいるように進まなくても、責任を他者に転嫁できないのです。それは簡単にできる生き方ではありません。人に流されない強い意志を持とうと思っている人だって、実は心のどこかで自分で決める責任を回避したいと思っているものなのです。
たとえば、いつも夫に対して口やかましくしてしまう妻が心機一転、おおらかな性格になろうと決意したとします。そうすると、結果的に夫の帰宅はますます遅くなり、子どももいつまでたっても勉強しなくなるかもしれない。つまり、状況が悪化する可能性があるのです。どんどん悪循環に陥っていく現実を前にして、「それでも、もうガミガミいわないと決意したから」と、泰然としていられる人がどれだけいるでしょうか。そうなるくらいならば、これまで通り口やかましい妻として振る舞って、「家族の問題を決して許さない正義の人」という立ち位置を確保したほうが楽だ。人間は、そう考えるものです。
自分という道具は、取り替えることができません。たしかに、この「自分」は癖があるけれども、それをどう使いこなすかが大切なのです。そのためには、自分の短所や欠点と思っていたことを長所に置き換えてみることです。携帯端末やパソコンのOSをバージョンアップすれば、本体を買い替えなくても新しい道具を手に入れたのと同じように、バージョンアップした新しい自分を見出せるでしょう。
「ストレス」とは、理想と現実とのギャップのことです。ここでいう理想とは、しなければならないことがたくさんあっても、それらを難なくこなせる状態を指します。しかし、当然、複数の物事を効率よく進めるのは難しい。
それでは、どうすればストレスを解消できるのか。 単刀直入にいえば、しなければならないことを減らす。これが一番簡単です。「それができないから気疲れをしているのだ」と反論されそうですが、心持ち次第でストレスは軽減することができます。
先に見たように、ストレスは理想と現実とのギャップから起きるので、このギャップを縮めればいいわけです。その一つの方法が、理想を下げること。つまり、「しなければならないことを減らす」ことです。 そのためにはまず、目の前のことを「絶対に」しなければならないのか見極めるところから始めなければなりません。なぜなら、「これは必ずやらなければいけないんだ」と思い込んでいるだけということも多々あるからです。
病気にならなくても、何が自分の人生にとって一番重要なことなのかを考えておかなければなりません。『青春の記録()』という韓国ドラマでは、モデルから俳優に転身する若者サ・ヘジュンをパク・ボゴムが演じています。彼は親の援助やコネに頼らず、瞬く間にスターダムにのし上がりましたが、仕事が忙しく好きな人とも思うように会えなくなり、結局、恋人と別れることになります。恋人のアン・ジョンハ(パク・ソダム) は彼にこういいます。
さらに、ストレスを感じないためのもう一つの方法は、「現実を高める」ことです。 人間には「しなければいけないこと」「したいこと」「できること」しかありません。この三つのうち、現実的にまず着手可能なのは、突き詰めると「できること」だけです。とにかく、できることから始めるしかないのです。 もっと具体的にいえば、まず「少し」やってみることです。一度にすべてのことをしようと思わず、少しやったら一度休んで、また少しやってみる。これを何度か繰り返せばいい。 すぐに始めることが一番ストレスのかからない方法ですが、もしも「今日はしない」と決めたのであれば、いつ着手するかを決めておき、その日までは一切考えないようにするとストレスなく過ごせます。「早くやり始めなければ」と思いながら何もしないのがもっともストレスフルなので、忘れることがリラックスするためには必要です。
しかし、ネガティブなことをいわれて育った人が皆、自分のことが好きでなくなったかといえば、そうではありません。そもそも自分のことを誰も悪くいわないような「無菌状態」で育つ人はいません。親でなくても、教師やクラスメートなど、ひどいことをいう人は誰かしらいるものです。それでも、自分のことを肯定し続けられる人と、自信が持てなくなってしまう人に分かれてしまう。 この違いはどこからくるのか。それは、自分を好きになるかならないかを自分で決めているからです。アドラーはこんなことをいっています。 「自分に価値があると思う時にだけ、勇気を持てる」( Adler Speaks) ここでアドラーがいう「勇気」というのは、仕事や勉強に取り組む勇気や人と関わる勇気です。
自分に才能があると信じている人は仕事や勉強にも真剣に取り組みますが、自分は何をやっても駄目だと思い込んでいる人は進んで仕事や勉強に取り組もうとはしないでしょう。どれほど頑張っても、結果を出せないと思っているからです。そして実際、努力をしないので高い評価を得ることができません。 自分を好きになることができないのには、「理由」ではなく「目的」があるのです。自分には価値がない、だから自分のことを好きになれない。その結果として勇気を持つこともできない。これが自分を好きになれない人の思考回路だと思うでしょう。そうではありません。そもそも、勇気を持ちたくないのです。勇気を持ちたくないからこそ、「自分は無価値な存在だと思っておこう」とするのです。
対人関係についていえば、人と関わると摩擦が生じ、そのために傷つくことがあります。たとえば、好きな人に告白したら、「異性として意識したことは一度もなかった」といわれることもあるでしょう。そんなことを一度でも経験したら、好きな人がいても、傷つくことを恐れて告白しようとは思わなくなります。 そんなふうに対人関係で嫌な思いをしたり、傷ついたりしないためには、対人関係に入っていかないのが無難です。勇気を持ってしまうと、誰かと関わることになります。そうすると傷つくことはありえるので、対人関係に入らないでおこうと思います。
「評価」と「価値」は違う
このように自分の短所を長所に置き換えることで少し自信を持てた人は、対人関係の中に入っていく勇気を持てるようになります。 しかし、おわかりのように、短所を長所に置き換えてみたところで、それもまた「評価」でしかありません。それでも、自分についての肯定的な評価を受け入れる勇気を持たなければなりません。自分を見直すことで自分を好きになることができれば、それは他者からの評価によって自分の価値が高まったのではありません。他者に肯定的な評価をされたことがきっかけになって、自分の決心で自分の価値を認め、自分を好きになったということです。こうして、対人関係に入っていくことができれば、その中で自分を好きになる方法があります。アドラーは、先に引用した言葉に続けて、次のようにいっています。
どんな時に自分のことが好きだと思えるかといえば、自分が何らかの仕方で他の人の役に立てている、他の人に貢献していると感じられる時です。そう思えた時に、自分には価値があると思え、自分のことを好きになれるのです。そうなるためには、対人関係の中に入っていかなければなりません。
ただし、そのためにはアドラーがいうような何らかの「行動」をしなければならないわけではありません。自分が生きていることが、人に貢献していると思えればいいのです。それが難しいという人はいるでしょう。今の時代は、何かをできることが(さらにいえば、成功することが) 価値あることだとみなされているので、何もできない自分には価値があると思えず、そんな自分を好きになれないからです。しかし、それもまた世間の常識が自分に下している評価でしかないので、その評価で自分の価値が決まるのではないのです。
こんなふうに考えてみてはどうでしょう。子どもは何もしていなくても生きているだけで、周囲の人を幸福にします。大人も子どもと同じように生きているだけで、周りの人を幸福にしていると考えていけない理由はありません。理想から引き算してしまうと、自分を好きになれません(「理想」といっても「成功する」というような、多くの人が、価値があると考える理想ですが)。病気で 臥せっている家族や友人がいれば、とにもかくにも生きていることがありがたいと思うのではありませんか? そう思えるのであれば、自分についても生きていることを原点に考えてみれば、どんな自分でも好きになれるはずです。
「現実との接点を見失う」と私が訳したもとのドイツ語はunsachlichです。これは「事実」とか「現実」という意味のSacheという名詞から派生した形容詞sachlichの反対語で、「事実に即していない」「現実に即していない」という意味です。「事実」あるいは「現実」というのは、「ありのままの自分」です。自分のことをよく見せたい人は、ありのままの自分との接点を失っているのです。つまり、いつも人にいい顔をする人は、人によく思われたいがために本当はいいたくもないことをいい、したくもないことをしている。その意味では、ありのままの自分との接点を失った生き方をしているのです。
次に、うんざりしてしまう理由としては、皆にいい顔をして「好きなのはあなただけ」とか「あなたのことだけを信じている」ということをいっていると、信頼をなくすからです。好意を持っている人から「あなただけ」といわれたら嬉しいでしょうが、実は誰にでも「あなただけ」といっていることが発覚した時、信頼を失います。ライバル関係にある上司のどちらにもおべっかを使う時にも、同じことが起こります。
誰もが不安になることはあります。今の時代は仕事だけでなく、これからの自分の人生がどうなるか、さらには、この世界がどうなるかは誰にもわかりません。仕事に就けるのか、就職できても定年まで仕事ができるのか、結婚できるのか、年金はもらえるのか、孤独死するのではないか等々、そうしたことを考えはじめると不安にならないわけにはいきません。しかし、「すべてにおいて」不安になる必要はありません。
試験を前にしていい結果を出せないかもしれないと思って不安になることはあるでしょう。それでも勉強するしかありません。もちろん、やってみても望む結果を出せるとは限りませんが、試験を前に不安に駆られ、充分勉強ができなかったというのは、率直にいって「逃げ」でしかありません。結果を出せなければ、再挑戦すればいいのです。次に、これから起こることが何もかもわかってないと不安だという人は多いでしょうが、人生では何が起こるかがわからないからこそ、生きがいもあるのです。すべてが自分の予想通りになるという人生を、生きたいと思いますか? 結末を知ってからでないと怖くて小説を読めないという人がいましたが、私はわからないから面白いのだと思います。人生は、そもそもどうなるかが 予め決まっているわけではないのです。
その学生は、好きな人の心の中に自分の居場所がないという現実を受け入れたくないので、諦めてしまうのです。自分の気持ちを好きな人に受け入れてもらえなかった人は、不幸になったと思います。これ以上、不幸になりたくない人は、好きな人ができてもその気持ちを拒否されるのが怖くて告白しようとはしなくなるでしょう。そのためには、告白しないための理由づけが必要です。それは、自分に価値がないと思い込むことです。自分でも自分のことが好きになれないのに、どうして他人が私を好きになってくれるだろうか、と考えるのです。そして、たった一度でも失恋すると、自分はなんと不幸なのだと思います。もちろん冷静になって考えれば、同じことが次も起こるとは限らないことはわかるはずです。しかし、失恋という不幸の渦中にある人は、深く傷ついた自分は不幸だと思います。そう思う人は少なくとも以後、積極的に対人関係の中に入っていこうとしなくなるでしょう。
幸せになりたくないもう一つの理由は、幸せになれば注目されなくなるということです。不幸であれば、同情されるなどして人から注目されます。カウンセリングに行けば、「大変でしたね」といわれるかもしれません(私はいいませんが)。 友人から「つらい、もう生きていられない」というメールを受け取った人が、心配になって深夜にもかかわらず友人宅に車を走らせました。そこにはその人の他に、すでに五人がきていました。誰もがこんなことをしてまで注目されたいとは思わないでしょうが、多くの人は、他者から注目を得たいと考えているのは本当です。しかし、適切な行動で注目されなければ問題行動を起こすというのは、決して健全とはいえません。
子どもの頃は、親の不断の援助が必要でした。自分では何もできない子どもは、家庭の中心に生きることができました。しかし、やがて自力でできることが増えていくと、子どもの頃のような格別な注目は自分に向けられなくなります。これが自立するということであり、成長するということです。生まれた頃のように、家族の中心にはいられなくなって当然なのです。人が、家族などの共同体に所属したいと思うこと、ここに自分がいてもいいと思えることは、人間の基本的な欲求です。しかし、それとその共同体の中心にいるというのは、まったく別のことです。何をする時も人から注目されたいと思うのは、共同体…
「もっと幸せになりたい」と考えているのなら、それも違います。幸せは量的なものではないからです。「もっと」幸せになれるのになれないのではなく、今も、これからも幸せは変わりません。「これからも変わらない」というのは、すでに幸せで「ある」のであり、それ以外の幸せはないということです。端的にいえば、生きていること自体が幸せなのです。このことに気づくことが、幸せになることなのです。
相談者が「木」と違うのは、歳だけを重ねていくことに不安を感じているということです。なぜ、不安になるのでしょうか。それは、静かにゆったりと構えていないからです。もしも不安を感じずに生きようとするならば、「あたかも目の前には永遠があるかの如く」先のことを考えなければいいのです。
哲学者の三木清は、成功を「一般的」なものだと考えています。多くの人は人生で成功したいと思う。いい学校に入り、いい会社に入り、昇進し、家族を持つ、ということです。就職活動をしている大学生は、皆同じ格好をしています。「就職」という成功を得るためには、他の人と違ってはいけないのです。 一方で「幸福」は、成功とは違い「各人においてオリジナル」なものです。ですから、幸福でありたい人は、他人と同じである必要はありません。そして、成功を目指す人にとっては、まったく理解できない人生を生きます。相談者は成功を目標にしていなくても、幸せでありたいと思っているはずです。不幸になりたい人間はいないのです。
三木は、成功と幸福を対比しています。彼によれば、幸福は人生の中で上位にある目標です。そして、成功は幸福であるための手段です。ただし、成功すれば幸福になるかどうかは、自明ではありません。成功と幸福はまったく違うものなので、成功しても幸福ではないと感じている人は多いように思います。さらに三木は、成功が「過程」であるのに対して幸福は「存在」だといっています。これは、何かを達成しなければ成功しないが、幸福は何も達成しなくても、幸福で「ある」という意味です。そのように考えれば、「このまま歳を重ねていく」人生であっても幸せであることができます。
仕事についていえば、人は働くために生きているのではなく、幸福であるために働いています。ですから、仕事が嫌だったり、生きがいを見出せなかったりするのは、本来おかしいことなのです。今は我慢して働いているけれども、お金を貯めて、あれこれしたいと考えている人は多いかもしれません。しかし、楽しみを先延ばしにしなくても、生きがいを感じ、幸福であることは「今」できるのです。…
今の時代は何が起こるかわかりません。健康を害したり、会社が倒産して仕事を失ったりすることは、いつでも誰にも起こりうることです。 そう考えると、何かの目的のために貯金するだけでなく、生活のために貯金しておかないと、不慮の出来事に遭遇した時に対処することはできませんから、貯金することは必要であるというのは本当です。 しかし、貯金をしようとするあまりに普段の生活を切り詰めなければならず、そのために日々を楽しく過ごせないのであれば、たとえ将来楽しく過ごせて、幸福になれたとしても意味があるとは思いません。 なぜなら、人は「今」しか幸福になれないからです。振り返れば、かつて幸福だった日々はあったでしょう。しかし、そのような日々が現在も続いているのであれば、それは「今」の幸福です。もしも今は幸福でないと思うのであれば、「あの頃はよかった」と嘆息したところでどうにもなりません。幸福だったのであれ不幸だったのであれ、過去はもはやどこにも存在しないのです。 他方、未来はどうなるかわかりません。おそらく明日という日はやってくるでしょう。けれどその明日という日が今日、自分が想像しているような日になるという保証はないのです。
「今」は、目的を達成するための準備期間ではありません。人生のどの段階も仮のものではなく、今こそが本番なのです。そうであれば、未来のために必要以上に生活を切り詰めるというのは、人生の本来のあり方とはいえません。
若くて健康な人にとっては、病気になるということすら考えられないかもしれません。しかし病気になれば計画していたこともたちまち中止、少なくとも延期しなければならなくなります。ですから、人生の行く手を遮るような出来事にも遭わずに、百歳まで生きることを前提に人生設計をするのは、私には笑止なことに思えます。そうであれば、直近のことであれ(長生きをするとすれば、の話ですが) 先のことであれ、訪れないかもしれない未来のことを思い煩って、恐れたり不安になったりすることには意味がありません。
若い人が、これからの人生について具体的に語るのを聞くことはよくあります。けれど、たいていの人がイメージしているのは、学校を卒業し、結婚して子どもを産み、マイホームを建てる、というようなところまでです。おそらく親も若く、祖父母とも一緒に暮らしてこなかった彼らにとって、老後について想像するのは難しいのでしょう。それでも、老後の生活はつらいものになると思っている人は多いようです。しかし年齢にかかわらず、人生はどの時期も苦しいのであり、年を取った時だけがとりわけつらいというわけではありません。 今は老後の生活を不安に思っていても、現実に老後を迎えれば、起こることは起こるし、起こらないことは起こりません。今、まだ見ぬ未来のことで不安になっていても仕方ありません。すべては、その時に考えればいいのです。
生きることは苦しいからこそ、その分、喜びもあります。たとえば病気になることを望む人はいないでしょうし、「病気になってよかったですね」という言葉は、当事者には決していってはいけないことです。しかし、病気になったからこそ知ることができる世界もあるのです。免疫学者の多田富雄は 脳梗塞 で倒れた時、一命は取りとめたものの、声を失…
今の時代、年金の支給開始も遅く、金額も多くはないので、老後にどうやって生計を立てるかを考えないわけにはいきません。働かなければ食べていけないのではないかという不安は、たしかにあります。自分の希望にかかわらず、否が応でも働かなければならないのです。それをわかったうえであえていうならば、老後に働けるのは喜びでこそあれ、避けたいことではありません。
ただ、現実的に働けるかどうかは難しいところです。仕事がないかもしれませんし、仕事があっても病気や老いゆえに、思うような仕事に就けないこともあります。あるいは、働きたいと思っていても、働けないことがあります。病気や年齢が原因で働けないという現実に直面するかもしれませんが、それは「その時」に考える他ないのです。
この相談者は働きたいけれど、できないということを不安に思っているのではないように見えます。今は若いので、当然仕事をするけれど、老いてからも労働力であり続けなければならない人生を、不安に思っているのです。どうなるのかはわかりませんが、今から準備できることはあります。それは「働かなければならない」と考えないことです。仕事は、義務感でするとつまらないものになります。やりたいことをしていれば、老後もそれを続けられることを喜びに感じられるはずです。普通に会社勤めをしていれば定年があります。その後、仕事を続けるとしても、若い時から働くことを喜びに感じていた人であれば、「働かなければならない」とは思わないでしょう。
人間の価値は、普通の意味で「働く」ということにあるのではありません。現代は生産性に価値を置く時代なので、病気や障害、高齢のために働けない人には「価値がない」という人がいます。そうした考え方をする人は、いつ何かが起きて自分が働けなくなる可能性があると、考えたことすらないように思えます。仕事ができないからといって、自分の価値がなくなるわけではありません。 「仕事」という意味を広げて捉え、他者からは何もしていないように見えても、「働いている」と考えるか、もしくは「生きている」ことそのものに価値があると思えば、どんな境遇の人もこの世界で共存できます。そして、老後のことを不安に思わなくてすむでしょう。
しかし一方で、知っておかなければならないことがあります。それは、この「憂鬱」は自分が作り出しているのであり、自分が気分を重くしているということです。どんな気分も、何らかの原因があり、その結果として引き起こされるわけではありません。月曜日や連休明けに出勤する時、多くの人は憂鬱かもしれませんが、誰もがそうだとは限りません。また、月曜日は憂鬱でしょうが、それは月曜日だけではないかもしれません。
夜行で発つべく郷里の駅頭に立ったとき、天空輝くばかりの星空で、とりわけ 蠍座 がぎらぎらと見事だった。当時私の唯一の楽しみは星をみることで、それだけが残されたたった一つの美しいものだった。だからリュックの中にも星座早見表だけは入れることを忘れなかった」
その日見た星空のことかわかりませんが、「蠍座の赤く怒る首星 アンタレース」を 詠った詩があります(「夏の星に」)。夏空に輝く星々に、詩人は呼びかけます。 「うつくしい者たちよ わたくしが地上の宝石を欲しがらないのは すでに あなた達を視てしまったからなのだ きっと」 天上の美を「視てしまった」。茨木の関心は歳を重ねたら移ろう美、誰かから認められなければならない美から離れていったのではないかと思います。
精神科医の神谷美恵子が『生きがいについて』を執筆中に日記に次のように書いています。 「過去の経験も勉強もみな生かして統一できるということは何という感動だろう。毎日それを考え、考えるたびに深い喜びにみたされている」(『神谷美恵子日記』) 歳を重ねるということがどういうことか、ここに見事に表現されています。それまでの人生で経験したことを「みな生かして統一」できることは喜びなのです。
まず、適性や才能には関係なく、どんな仕事も少しやったくらいではやりたい仕事かそうでないかはわからないので、深く考えずしばらく続けることです。そうすると思いがけず、仕事が面白くなることはあります。
私はやりたくない仕事を後回しにします。そうしなければ、やりたい仕事に取りかかろうとする時、疲労困憊 してもはや体力も気力も残っていないことがあるからです。一方で、後に楽しみを残しておけば、やりたくない仕事でもなんとかやり終えることができることもあります。もっとも私の場合、この原則を仕事に使えないことがあります。というのは、午前中は考えることができるので、メールの返事を書くことなどに割いたりするのは、もったいないと思うからです。 生活のためであっても、仕事を楽しんでいけない理由はありません。先ほど音声入力について触れました。音声入力の研究(大げさですが) に時間をかけるくらいなら、少しでも原稿を書き進めるべきなのでしょう。しかし、合理的でない、他の人には無駄に思えることをしてみると、仕事にばかり囚われないで人生を楽しむことができるのです。
本当の問題は、「心に余裕が持てない」という人は、実際のところ、その状態を回避したいとは思っていないという点にあります。そういう人は、どんな状況にあっても「余裕がない、余裕がない」というでしょう。私なら「心に余裕が持てないのではなく、持ちたくないのですね」といってしまうかもしれません。 本当は、忙しいから心に余裕が持てないのではなく、心に余裕を持ちたくないから忙しくしているのです。心に余裕を持ちたくないと思うのには、何らかの「目的」があります。なおかつ、「私は忙しいんだ」と自分を納得させられるだけの理由も必要になります。その理由こそが、「仕事や付き合い」なのです。
「神経症者は、一つの症状を驚くべき素早さでなくし、一瞬の 躊躇 もなしに、新しい症状を身につける」(『人生の意味の心理学』) なぜ、こんなことになるのでしょう。先の問いかけに「この症状が出なくなれば仕事に復帰したい」という答えが返ってきたとしましょう。ここから何がわかるかといえば、仕事に復帰したくないことがわかります。ですから症状が出なくなると、仕事をしたくない人は仕事をしなくて済むような理由が必要になります。
仕事の能力に自信がない人であれば、必要な知識を身につければいいのです。たとえ今、充分な力がなくても、現実を受け入れ、そこから始めるしかありません。「職場での対人関係が苦手だ」という人がいれば、「仕事は人付き合いとは直接関係ない」というようなことを私ならいいます。
「電車に乗ったら心臓に負荷はかかるけれど、乗れないわけではない。仕事は制限しなければなりません。しかし、ロジカルには決められない。どの仕事は引き受け、あるいは引き受けないかは自分でしか決められない。本は書くといいです。本は後に残るし、達成感もあります。強いメンタルストレスがかかると、冠動脈が閉塞することはありうる。しかし、これは誰も予想できない。締め切りのある仕事があって、その時親戚に不幸があって、風邪でもひくと……」 「本は後に残る」とか、「ストレスがかかると、また冠動脈が閉塞するかもしれない」とか主治医は怖い話を始めましたが、退院後大抵のことはできることを知って 安堵 したのも本当です。
しかし、相手が何度か常識に欠けることや、気分を害することを繰り返したからといって嫌いになる必要はありません。「嫌い」という感情が起きるのは、相手との関係が近いことを意味しています。誰か好きな人に告白して、その人から「あなたのことは嫌い」といわれたら、実は脈があるということです。なぜなら、何の関心もない人に「嫌い」というはずはないからです。一方で、「あなたのことを何とも思っていない」という答えであれば、脈がないということです。一時的にしか関わらない人であれば、嫌悪感を抱くほど相手との関係を近くしなくていいのです。
ところが、これが嫌いな親と付き合うとなると、なかなか大変なことになります。嫌いであっても付き合っていかなければならないからです。しかし、親との関係であっても、必ずしも仲良くなければならないわけではありません。少し距離を置くくらいがちょうどいいでしょう。
もちろん、他人がいうことに、いつも 唯々 諾々 として従うことが正しいわけではありません。しかし建設的な意見を述べるのではなく、周囲から嫌われるようなやり方で主張する人は屈折した方法で認められようとしているのです。その言動は劣等感からくるものです。このような人は他の人から嫌われることを 厭わないので、反論しても素直に受け入れようとはしないかもしれません。それでも話の中身だけに注目して、必要があれば反論するしかありません。
いつも浮かぬ顔をしている人も、文句ばかりいう人も、結局はどちらも屈折した仕方で認められたいのです。ですから周りにいる人は好意を持てず、付き合うとストレスがかかってしまいます。そのような人と関わる時にストレスを感じるとすれば、それがまさに屈折した承認欲求のある人が望むことなのですから、こちらが気を遣って疲弊するのはおかしいでしょう。
相談者が、知り合いを「増やしたい」といっているのは正しいのです。たしかにコミュニティに参加すれば「知り合い」ができ、その数も増えるかもしれません。しかし、「友だち」は増やすことはできないのです。そもそも私の理解では、友だちというのはコミュニティに参加して「増やす」ものでも、「作る」ものでもありません。コミュニティで知り合った人が後に友だちに「なる」ことはあるでしょう。ですが、気づいたら誰かと友だちに「なっている」のであって、友だちを「作る」ためにコミュニティに入るのは動機が不純だと思います。
何かのために友人を選ぶというのは、友情ではありません。同じことは恋愛にもいえます。というか、彼や彼女を「作る」という人がいれば、その恋愛は純粋なものとはいえません。
誰かと友人関係になるのが億劫だと思っている人の周りには知り合いはいても、友だちはいないでしょう。その人は、他者に近づけば知り合いが増えていくように、友だちも増えていくと考えます。しかし、知り合いになるためには何かきっかけがいるでしょうし、友情を育みたいのであれば、なおさら自分が働きかけなければなりません。
人との関わり方は大きく二つにわかれます。一つは他者を支配すること、もう一つは他者に依存することです。今の文脈でいえば、コミュニティに参加して知り合いを増やしたいと思う人は、他者を何らかの手段のために利用し、支配しようとしているのです。一人ではいられない、孤独を誰かに癒やされたいと思う人は、他者に依存しているのです。何らかのコミュニティに属さないで一人でいると、自分が仲間外れにされていると思う人も同じです。友だち(おそらく、相談者の場合は知り合い) を増やしたいけれど億劫だ、という人は誰も近づいてこないでしょう。自分からは何も与えず、与えられることばかり考えているからです。
高校生の時、私には友だちがいませんでした。クラスにはいくつかグループがありましたが、どこにも加わりませんでした。どのグループとも適度の距離を置いていたともいえますが、別に孤高を持するためにそうしていたわけではありません。学校に行き勉強をし、話をする人がいれば話をし、そして、帰宅する。これが私の毎日でした。七時間目まで授業がありましたし、学校から遠く離れたところに住んでいたこともあって、授業が終われば一目散に帰って家で夜遅くまで宿題をしたり、翌日の予習をしたりするだけで精一杯でした。だから、放課後、誰かとどこかに出かけようなどとは考えたこともありませんでした。
この話を本に書いたことがあります。するとそれを読んだ人が、友だちを必要としないからといって、実際に作ろうとしないというのは、アドラーがいうところの「共同体感覚」とは真逆ではないかといいました。この人の理解では、皆が仲良くすることが共同体感覚の意味するところのようです。それが必ず間違っているわけではありません。しかし、アドラーがいう共同体感覚というのは、「人と人とが結びついている」ということであり、問題はその結びつき方にあることを知っていなければなりません。先に見たように、依存するという形でしか他者と結びつくことを知らない人は、他者と適切な距離を取ることができないのです。
たとえ現実的に誰かと知り合いでなくてもいいのです。誰かと友だちになることを願うのであれば、そして「友だちを作ろう」と思わなくなれば、真の友に 邂逅 することになるでしょう。
他人は自分の期待を満たすために生きているのではありませんから、「私がイライラしないように行動してね」ということはいえません。イライラする人は怒っているのであり、その怒りで他の人を変えようとしているのです。そして自分が願うように他人を変えられないことにさらなる苛立ちを感じているのです。
また、三木がいうのとは違って「すべて」の怒りが突発的ではありません。イライラする人の怒りは突発的というよりは、習慣的で持続的です。もちろん、誰かの特定の行為についてイラつくことはありますが、ある人の言動が「いつも」苛立たせることもあります。 怒る人は、怒りで相手の行動をやめさせられると考えています。しかし、実際には、行動をやめさせることはできません。もしかしたら、やめることがあるかもしれませんが、怖いからやめたのであり、決して納得したわけではありませんし、また同じことを繰り返すことが多いです。怒ってみても同じことが続くのであれば、怒りには「即効性」はあっても「有効性」はないということです。なぜ有効ではないのか。
「怒ほど正確な判断を乱すものはないといわれるのは正しいであろう」(前掲書) 怒ることで何をしようとしているのか、何ができ、何ができないのかを正しく判断しなければなりません。つまり、「怒ったところで他人を変えることができない」ということを知らなければならないのです。きつく叱ったら相手が行動を改めたと見えるのは、あなたが相手の行動を変えたのではなく、相手が自分の行動を変える決心をしただけです。
さらに、そのように育つと他者と競争するようになります。きょうだい関係についていえば、親に叱られずほめられることで、他のきょうだいよりも上に立とうとします。ほめられたら優越感に浸ることができます。勉強や仕事は本来、優越感とは何の関係もないことですが、このように育った人は、やがて自分の価値を競争や上下関係でしか考えられなくなります。
相手が真剣に付き合う気がないのがわかっていても、そんな相手と別れる決心ができないのであれば、話は複雑になります。言葉では関係を切りたいといっていても、ずるずると付き合っているのであれば、言葉よりも行動が本心を表しています。いっていることとしていることが違う時は、していることが本心です。つまり、別れたくないのです。この場合も、別れるために関係を「断ち切って」しまおうと思わないほうがいいでしょう。
薬を服用している場合、薬によっては症状がなくなっても、すぐにやめてはいけないものがあります。やめた途端に強い副作用が出ることがあるからです。そのような場合、薬を"taper"しなければなりません。一度に飲む薬の服用量を減らすか、あるいは服薬の回数を減らすかです。そうして、少しずつ薬の量を減らし、最終的には服用から完全に離脱するのです。別れる時も、上手に"taper"しなければ、別れたけれどまた付き合うということになりかねません。ですから、二人の行く末に暗雲が立ち込めたならば、しばらくの間、まったく会わないのがいいかもしれません。
関心がない人に、働きかけることはしないでしょう。つまり、「興味がない人からは好かれる」のは、働きかけないからです。関心のない人から好かれるのは困ったことでしょうが、「働きかけなければ好かれる」ということを知っている人は、好きな人に積極的にアプローチせず、興味を持っていないふりをすることがあります。
愛されたいと思うのなら、相手の中に共鳴を引き起こしうるような何かを持つしかありません。そのうえで、相手がこちらの働きかけに共鳴するかどうかは決めるわけにはいかないのです。なぜなら、振動数が同じでなければならないからです。 今回の相談のもう一つの問題は、この相談者が責任を免れているところにあります。つまり、気になる人には相手にされませんから、「私はこんなに好きなのに振り向いてもらえない」と相手のせいにして言い訳できるのです。
恋愛は、可能性の中にある時はたやすいものです。ひそかに誰かのことを好きでいるだけならば、相手から自分の気持ちを拒否されてつらい思いをすることはありません。また、実際に話してみたら、自分が思い描いていた憧れの人とはあまりにもかけ離れていることがわかって幻滅する、ということもありません。嫌われたり、憎まれたり、裏切られたりして、傷つくことを恐れていれば、そもそも恋愛などできないのです。恋愛に限らず、およそどんな対人関係でも摩擦が起きないわけにはいきません。
愛の関係は職場での対人関係、友人との関係と基本的に同じなので、職場で尊敬されている上司が家庭では子どもたちに 疎まれているとか、友人との関係がうまくいかない人が恋人との関係はうまくいっている、ということは考えられません。いずれかの関係が順調でなければ、その人の対人関係の築き方全般に改善するべき点があるといえます。
同僚ならば仕事上だけ付き合うこともできますが、友人であれば共に過ごす時間は長くなります。恋人や結婚している人との関係はさらに密で、共有する時間もさらに長くなります。ですからそのぶん一旦関係がこじれると、痛みも増すことになります。
それでも、恋愛関係は親子関係より難しいわけではありません。恋人や夫婦は別れることができますが、親子はたとえ関係がどれほど悪くても別れることは基本的にはできないからです。とはいえ、恋人と簡単に別れられるのであれば悩むことはありませんが、実際はそんなに単純ではありません。
それでは、愛の関係と他の対人関係との違いは、距離が近くて長く続くということだけなのかといえば、そうではないでしょう。共に過ごす時間が長く親密になれたら、その人が恋人になるというわけではありません。アドラーは身体的に相手に引きつけられることを、愛の関係と他の対人関係とを区別する点だと考えています。しかし、身体的に引きつけられるからといって、二人の恋が直ちに成就するかといえば、これもそれほど単純な話ではなく、そこにいたるまでにはいろいろと問題が起こります。
まず、セックスは二人の関係の一部でしかないということです。 付き合い始めた頃は、二人でどこかへ出かけることもセックスも、現実の生活から切り離された「イベント」なので、夢のような楽しい時間を過ごすことができます。ところが、一緒に過ごす時間が増えて生活を共にするようになると、セックスが占める割合は少なくなりますし、そうなるのが当然です。そうなると、セックスをしていない時の関係がうまくいかなければ、それがセックスにも影響を及ぼすことになります。
セックスは非常にパワフルな対人関係なので、たとえ二人の間がうまくいっていなくても、セックスをすることで仲良くなれたように思うこともあります。しかし、そのようになることを「負けだ」と思う人がセックスを拒否するために、「症状」を使うことがあります。特別な理由もなくセックスを拒否できないと思う人は、インポテンツや不感症という症状があれば、相手がセックスを断念するだろうと考えるのです。ある日セックスレスになった時も、突然そうなったわけではなく、こうした症状のためにセックスができなくなったことがあったかもしれません。このような症状があり、セックスレスを修復しようと思ってカウンセリングにくる人がいれば、症状そのものには注目せず、二人の関係全般を見直すことからはじめます。
そうなった時、セックスレスは愛されていない、愛していないことを意味すると考え、修復しなければならないことだと考えるようになるのです。そう思っている人は、セックス以外でも二人の関係がうまくいっていないことに目を向けたくないので、セックスレスであることを関係がよくないことの原因とみなしたいともいえます。
できることは「今ここ」にいられることを喜べるようになることです。それができれば、行為がないという狭義のセックスレスではなくなります。セックスレスであることに囚われなければ、関係はよくなっていきます。なぜなら、以前は二人の間でセックスは必要不可欠であり、それが二人の関係がよいことの証、反対にセックスレスは関係がよくないことの証だと思っていたのが、今ではセックスをしなくても、二人の関係は揺るぎがないと思えるようになれるからです。
幸せな恋愛がしたい人が、わざわざそのような人を選んでいるはずはないと思いたいところです。しかし、意識して選んでいるわけではなくても、そのような人を自ら進んで選んでいる可能性はあります。
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